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そこはかとなく愉しからずや

スサノオノミコト=スサ(ペルシャ)の王=帝釈天=ソシモリ=牛頭天王(1)

紀元前一千年の頃、恵比寿のような短軀無髷で福相のツングース種族の一派であるエビス人(クシ、土蜘蛛ともいう)は、西は朝鮮半島より、北は沿海州の黒龍河口より、日本の本州に移住してきました。(←小谷部全一郎説)日本は気候もよく、食べものも豊富な住みやすい島でした。



土蜘蛛 – Wikipedia

古代、大和朝廷側から異族視されていており、『日本書紀』では「神武紀」に土蜘蛛を、「身短くして手足長し、侏儒(ひきひと)と相にたり」と形容しているが、「景行紀」では朝命に従わず、石窟(いわむろ)に住む人物を土蜘蛛と表現している。

オロチョン族 – Wikipedia

オロチョン族アルタイ諸語ツングース系の言葉を話す民族ツングース系民族)。主に北東アジア興安嶺山脈周辺で中国領内の内モンゴル自治区、その近隣のロシア領内に居住する。人口は約7千人。もともとは狩猟をしながら移動していたが、現在は定住化が進んでいる

 

八咫のオロチ伝説は、オロチョン族の征伐のこと

エビス人が衰退しはじめると、西方より、武勇にすぐれたエソ人種が朝鮮海峡を渡って本州の中部に移住してきました。

北方よりは梟猛なる越のオロチ族が日本海を越えて侵入し、北陸一帯に跋扈したので、東海の楽土はたちまちにして彼等の蹂躙する所となった。

その頃、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、クシ種族の占拠していた出雲の鳥上山に居た。当時本州の土着民族であるクシの首長アシナズチの求めに応じ、オロチの賊を討伐したのである。(←小谷部全一郎説)

島根県出雲市にある須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る須佐神社

御祭神

須佐之男命(すさのをのみこと)稲田比売命(いなだひめのみこと)足摩槌命(あしなづちのみこと)手摩槌命(てなづちのみこと)(須佐家の祖神)

国史には素戔嗚尊が単身大蛇を退治したように記載してあるますが、これは尊が主将となって、当時 簸川(ヒカワ)の杵築(キズキ)のほとりに居たエソ種族の勇士等を率い、高志(コシ)の八俣に割拠していた凶暴なること大蛇のようなオロチ人、即ち現今のシベリア沿海州に居住するオロチ族(複数ではオロチョン)の祖先等が海を越えて侵入したのを征伐したものと思われます。

乱が治まった後、アシナズチのむすめ、櫛名田比売(クシナダヒメ)、すなわちクシ族の首長の姫、ナダを娶り、岳父の後を継いでクシの首長と新来のエソ種族の司長とを兼ね、ここに出雲朝の基を開いたのでした。

素戔嗚尊がユダヤの王者、スサの王(ペルシャの王)であると考えられるのは、「古事記」に伝わる当時の風俗によってです。

古事記「千位置戸(チクラオキト)を負わせ、また鬚を切り、手足の爪を抜かしめて、神逐い(カミヤライ)遂いき」

千位置戸(チクラオキト)を負わせというのは、罪科を償うために多くの物品を出すことで、この刑は鬚を切り、手足の爪を抜く。重罪のものは目をも抜く。これはモーセの著したユダヤの律法に規定してあります。またユダヤの律法は、王者は鬚髯を剃ること勿れと制定されている。素戔嗚尊は、鬚鬚が自然のままです。(←小谷部全一郎説)

出雲族はカナンから来たエソ族

小谷部善一郎によると、出雲民族になったエソ人は、西部アジアのカナンの故郷を去って東方に移住したのは、畢竟の隣国の強敵であったユダヤ人に国を奪われた結果と書いています。カナンの地から逃げて、インドでドビダラ族と同化して出雲まで来たのでしょうか?

出雲族がカナン人(フェニキア人)であれば近隣のペルシャエナムの地のスサの王族のスサノ王のことは、聞いていたでしょうし、スサの王族ならばと、娘を嫁がせ、出雲の大国主として役職を任せたこともうなづけます。エソ族(出雲族)は天孫族のヤマト朝廷にやぶれ追放され、北に逃げます。

そして蝦夷と呼ばれるようになります。

出雲大社は神社本庁には属していない、日本最古の独立した神社です。出雲族は古代イスラエルととは違った渡来民族(渡来してきたけれど、日本一番乗りの先住民と言っていいかも)その元は古代エジプトの州に住んでいた人たちかもしれません。

また、アイヌの一部は出雲族の子孫になります。

カナン – Wikipedia 

カナンという名称の起源は不明であるが、文献への登場は紀元前3千年紀とたいへん古い。シュメール人の都市マリ紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として明瞭に見いだされる[1]

紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。その領域は、地中海を西の境界とし、北は南レバノンのハマトを経由し、東はヨルダン渓谷を、そして南は死海からガザまでを含む[2]

カナンはイスラエル人到来前には民族的に多様な土地であり、「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであった[3]。また「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないともされる[4]。この文脈における「カナン人」という用語は、まさに「フェニキア人」に符合する。

カナン人は実際にはイスラエル人と混住し通婚したヘブライ語はカナン人から学んだものである(イスラエル王国を参照)。

カナン人は近東の広範な地域において、商人としての評判を獲得していた。メソポタミアの都市ヌジで発見された銘板では、赤あるいは紫の染料の同義語として “Kinahnu” の用語が使われ、どうやら有名なカナン人の輸出商品を指すらしい。これもまた、「ツロの紫」で知られるフェニキア人と関連付けることが可能である。染料は大抵の場合、その出身地にちなんだ名を付けられた(シャンパンのように)。同様に、旧約聖書に時折例示されるように、「カナン人」は商人の同義語として用いられ、カナン人を熟知した者によってその容貌が示唆されたものと思われる。

聖書のカナン人[編集]

カナン人とは、広義ではノアの孫カナンから生じた民を指すようである。「創世記」10章15-18節では、長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。

古代イスラエル人のカナン侵攻は、聖書のヨシュア記士師記に書かれているという、そのうち聖書も読もうと思います。

ヤマト民族とは違う、恵比寿・夷・蝦夷

エソ族はのちに蝦夷と言われ異民族として征伐の対象となりますが、ヤマト民族より古いのですから、先住民ですね、本当は。

小谷部は、スサ族はベルシャと書いていますが、スサ族があったのは、アッシリア時代です。バビロンの捕囚が終わって、古代イスラエル人(古代ユダヤ人)10部族が世界に離散していったころです。と、思ったのですが、さらに調べると、スサがあったのはエラムの地で、エラムは、ペルシャエラムとも言われます。やはりスサはペルシャでした。スーサというのはペルシャ語です。

(ペルシャ時代は 538-142 ペルシア・ギリシア時代  B.C.538 古代 メソポタミア バビロン捕囚が終了する )

ペルシャ湾の北西の上にスサがある

英文サイトのスサ情報を機械翻訳してみました。

エラムのアッシリア征服によって西部ペルシャエラム王国の征服を指し新アッシリア帝国(911 BC-609 BC)。エラム人は完全に消滅し、彼らの土地が最終的に修復不可能な荒廃したところ639紀元前に。

滅ぼされるエラム

背景
エラム人とアッシリア人の間の衝突は、紀元前721年前に長年にわたって続いていました。
それ以前の何世紀もの間、エラム人はバビロニアの政治に介入する習慣を作っていました。
当然、これはバビロンをその影響圏内に見たアッシリア人との葛藤を引き起こしたでしょう。
紀元前721年、バビロニア人はアッシリアに反抗し、エラミトの部隊は反乱でバビロンを援助しようとしました。
このイベントの後、アッシリア人とエラム人は何度も衝突しました。
で、チグリス紀元前717年には、紀元前694年に水陸両用の侵攻の一環としてエラミト海岸に沿って
紀元前693年に紀元前693年にデアラ川とディアラ川で再び遡りました(これは同じ戦いでした)。
ほとんどの場合、アッシリア人は大部分の手を得ることができましたが、エラミ人がメソポタミアの
境界を越えて力を伸ばすことはできませんでした。紀元前655年にバビロンへの攻撃が失敗した後、
エルマイトの勢力はすぐに崩壊し始めました – ウライ川スーザの平原では、
アッシリアの軍隊が強力なエラミト守備陣を襲った。エルマ人は激しく殴られ、
エラメ人の王は自分の馬車に逃げようとしている間に斬首されました。
別のバビロニア革命がイラームを即時侵略から救ったが、それは次の最後の偉大な
アッシリア王の心の中で最も重要な目標の1つとして残るだろう。Assurbanipal。

エラム
紀元前648年に、エラミト市のスーサは地面に荒廃しました。それは来るべき出来事のひどい兆候であった。
紀元前639年、アッシリア人は全軍を西から移動させて敵を破壊した。アッシリア人が以前と同じように
習得できなかったのは、報復と征服の彼らの最後の最も輝かしい行為であろう。

エラムの崩壊
アッスリヤがエラメイトの攻撃に対して負った敗北は、エラム人が直面する多くの問題の1つでした。
彼女の北の国境がペルシャ人によって蹂躙されていた間、内戦が土地で噴火しました。
紀元前639年に、コンスタンティナリオンはエラムに移り、エラメイト侵攻に対する復讐を誇らしげに文書化しました。

(ペルシャ人により蹂躙とありますから、ペルシャに征服される前のエラムもあったということですね。何人かはわかりませんが)

” 1ヶ月から25日の旅の間、私はエラムの地方を荒廃させました。
私は彼らの上に散らばっていました…スサ、マダクツ、ハルテマシ、
および他の都市のほこりが一緒に集まってアッシリアに連れて行きました…
人々の騒音、牛と羊の踏み板、喜び、私はその分野から追放されました。
野生のお尻、ガゼル、そして私が家にいるかのように、
私がそれらの中に横たわってしまった平原のすべての種類の獣。 ”

エラムが破壊された後、アッシリア人は帝国が崩壊するのを見返しました。
戦争の年は戦争の能力を破壊した。エラムの破壊から34年以内に、
アッシリアは中東の独立した政治主体として永遠に落ちました。

スーサの戦いは関与戦いだったアッシリア人とエラム人を。アッシリアの王アシュヴァルニパルは、
エラミ人のメソポタミア人に対する攻撃に疲れてしまい、スーサを処罰することにしました。

紀元前647年、アッシリアの王アシュヴァンパニパルは、スーサの人々が明らかに反対側に参加した
戦争中に都市を平準化しました。1854年に発掘タブレットオースティン・ヘンリー・レヤードに
ニネベはエラム人は、何世紀にもわたってメソポタミアに与えた屈辱のための報復を求めて、
「復讐者」としてアッシュールバニパルを明らかにする。
AshurbanはSusaの彼の首尾よい包囲の後にAssyrianの報復を命令する:

” スーザ、偉大な聖地、彼らの神の住居、彼らの謎の席、私は征服した。
私は宮殿に入り、私は銀と金、財と富が集められた財宝を開けた。
私はスサのジグラートを破壊した。私は輝く銅の角を打ち砕いた。
私はエラムの寺院を無駄にしました。彼らの神々と私は風に散らばった女神たち。
私は荒廃した彼らの古代の王たちの墓を失い、私は太陽にさらされ、
私は彼らの骨をアシュールの土地に運び去った。私はエラムの地方を荒廃させ、その土地に私は塩を蒔いた。

スーザ、アッシリア人によって解雇された。紀元前647年のスサに対するアシュヴァルニパンパルの
残忍なキャンペーンは、この救済に勝利したことで勝利を収めました。
ここでは、アッシリアの兵士がピクサクとクラバーバーでそれを転覆させ、戦利品を運ぶように炎が街から浮上します。

以上 機械翻訳

出雲族の先祖はドビダラ族でもある

「私は輝く銅の角を打ち砕いた」とありますね↑ 牛頭天王の牛の角の生えた兜を想像させます。

出雲族の向家の伝承で先祖はインドのドビダラ族とあり、ドビダラ族のクナト王が日本列島に上陸したときに カネの冑とカネの槍を持っていたといいます。ドラビラ語で金属をカネと言った。 クナト王は アカガネと呼ばれる銅製品を所持していた。出雲族の伝承でアカガネが出てきますね。スサの輝く銅の角と一致しますね。

(神武天皇の誕生年は紀元前711年であるが、一方で、イスラエル10支族が失踪したのは紀元前721年と、その差は僅か10年。)

もしかして神武天皇はアッシリア系?  出雲族はペルシャエラム系ですしね。 阿修羅VS帝釈天でもあります。

日本に来てまで争っていたのか? 根深い民族紛争ですね。いや、アッシリアに住んでいた失われた10部族が天皇家の祖ですから。

出雲系は 「ことむけやわす」という話し合いでまとめる平和主義です。アッシリア時代とは違うわけですね。

大国主は殺された説もありますし、平和的に国譲りした説もありますし。日本書紀が朝廷に都合よく書かれているのでよくわかりませんね。

アッシリア – Wikipedia 

エラム – Wikipedia

出雲族の故郷はエダムとも小谷部全一郎説にあります。黄色のところがエダム

エラムの地は,アッシリア人とバビロニア人からはエラムトゥと呼ばれ,古典時代のギリシャの著述家たちからはエリマイスと呼ばれました。それら著述家は,一時エラムの首都であったと思われるスサまたはシュシャンにちなんで,そこを“スシアナ”と呼ぶこともありました。ペルシャ帝国の下で,スサ(シュシャン)は王都の一つでした。(ネヘ 1:1; エス 1:2)そこは南東方面への,またイラン高原への通商路上にありました。これらの通商路を支配しようとしたアッシリアやバビロニアの支配者たちにより,エラムはしばしば侵入の標的とされました。エラム — ものみの塔 オンライン・ライブラリー

アッシュール – Wikipedia 

世界遺産アッシュール

アッシュール神

アッシュール市そのものが神格化された神で、都市と同じ名前を持つアッシリアの最高神、その名前の意味や語源は不明。

配偶神はムリッス女神(バビロニアにおける、エンリル神の配偶神ニンニル)。

サルゴン二世(BC721~705)の治世、アッシュール神が世界創造時からの神であるとするために、エヌマ・エリシュにおいてアヌ (メソポタミア神話)の父とされるアンシャルと習合された。アンシャルが選ばれた理由は名前の類似による。

次代のセンナケリブ(BC704~681)により行われたアッシュル至上主義的宗教改革により、マルドゥクのものであった、エヌマ・エリシュおよび、新年祭などでの主神の座を奪い、名実共に最高神の地位に就く。

その治世の間のほぼ20年間、バビロンより奪われたマルドゥク神像はアッシュール市に留め置かれ、バビロニアでは新年際が開催されることはなかった。

ディンギルen:Dingir)・ (アッシュール)と表記される。

 

阿修羅

アッシリアが滅びたの理由を考えたアケメネス朝ペルシアは「バビロン捕囚」に見られた「強制移住政策」等の「過酷な統治」をしていたからだ!ということが分かっていたので、統治においてアケメネス朝ペルシアは信仰の自由など「寛容な統治」を行なったといいます。

アッシリアの捕囚の中に失われた10部族の古代ユダヤ人がいました。アッシリアが滅びたあと、イスラエルに帰ったものもいますし。ペルシァに残ったものもいますし。世界に離散した者もいたと言います。

管理人の推理

アッシリアの神のアッシュールが、インドに伝わってアスラになっようです。アシラとも言います。アシラは日本神道の神の数を表す柱の語源にもなったようで、 諏訪大社の御柱祭などは、山から大木を切り出して、大社に納める奇祭が有名ですが、その近辺で、古代ユダヤの儀式と同じような動物犠牲のある儀式が行われていました。それは別記事にて

アッシリアとペルシャの戦いが阿修羅と帝釈天の戦い

アスラ

【アッシリアのアッシュール神】→【インドのアスラ魔人】→【仏教の阿修羅】

阿修羅は帝釈天と戦います。もしやと思って、帝釈天とスサノオのかかわりを調べると、どうやらサノオが帝釈天であるか、スサノオの部下が帝釈天であるようなのです。

アッシリアから見ればアッシュールは戦いの神で、ペルシャ側(スサノオ)から見ればアッシュールは悪魔です。逆から見れば帝釈天が悪でしょうね。

帝釈天 – Wikipedia 

帝釈天

帝釈天の名はインドラの名前のシャックロー・デーヴァーナーン・インドラハ(Śakro devānām indraḥSakko devānam indo)のうち、śakraを釈と音訳したものに、devaと意訳して後部に付け足し、indraと意訳して冠したもの。

本来のインドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神であったが、仏教に取り入れられ、成道前から釈迦を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となった(インドラの項を参照)。

四天王などを配下とし、須弥山の頂上・忉利天の善見城(喜見城)に住むとされる。インドにおける仏伝図様においては、釈迦に従う帝釈天の様子が描かれることがある。

涅槃経』巻33や『大智度論』巻56には、帝釈天が人間だった頃の名前は憍尸迦(きょうしか、Kauśika [カウシカ])であると説かれている。かつて昔にマガダ国の中で名を摩伽(まか)、姓を憍尸迦という、福徳と大智慧あるバラモンがいた。

彼には知人友人が32人いて共に福徳を修して命終して、須弥山の頂の第2の天上に生まれた。摩伽バラモンは天主となり、32人は輔相大臣となったため、彼を含めた33人を三十三天という。これゆえに釈迦仏は彼の本名である尸迦と呼ぶという。また、このために彼の妻・シャチーを憍尸迦夫人と呼ぶこともある。

ペルセポリス 古代ペルシャの親衛隊

また素戔嗚は武塔の神でもあります

武塔の神は北海の神で、嫁取りに南海に訪れたとされ、自ら「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり」と称している。ゆえにスサノオ(『古事記』における呼称は建速須佐之男命)と同一視される。

同一人物、もしくは部下

スサの王(ペルシャエラムのスサ)=

インドラ=帝釈天=武塔の神=ソシモリ=牛頭天王=スサノオ=大国主命  同一神です。

まだ別名ありますがややこしくなるのでこのへんで。

インドラ 帝釈天

祇園祭は古代イスラエルのノアの箱舟の祭り

祇園祭りは古代イスラエルの祭りであるというのは周知の事実ですが、祇園はシオン。山鉾のタベストリーはペルシャの図柄でラクダやムスクが描かれています。祇園祭りはノアの箱舟のノアがアララトの山について人類の祖となるったことを祝った祭りです。

牛頭天王 – Wikipedia

牛頭天王は、京都祇園社(現八坂神社)の祭神である。

『祇園牛頭天王御縁起[2][3][4]』によれば、本地仏は東方浄瑠璃界の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須弥山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、すがたを現した[5]

太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛頭をもち、また、3尺の赤いもあった[3][注釈 1]。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后をむかえようとするものの、その姿かたちの怖ろしさのために近寄ろうとする人さえいない。牛頭天王はびたりの毎日を送るようになった[5]

3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽のがあらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙掲羅龍王の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王はを娶りに出かける[5]

旅の途次、長者であるの古単将来に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏蘇民将来は歓待して宿を貸し、飯をふるまった。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民にさずけ、蘇民は富貴の人となった[5]

龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、8年をそこで過ごすあいだに七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、古単への復讐を図った。古端は千人ものを集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという[3]。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単のだけを蘇民将来の娘であるために助命して、「の輪をつくって、赤の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した[5]

八坂神社

八坂神社も出雲系で神社本庁には属していません。出雲系と天孫族とは 古代ひと悶着あったようですね。

八坂神社 – Wikipedia 

主祭神

配神

明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は以下の3柱であった[1]

中の座:牛頭天王 (ごずてんのう)

東の座:八王子 (はちおうじ)

西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)

出雲大社

以下のようにスサノオは、大国主の命とも同一視されていますが、大国主の命は役職名ですから、スサノオが後を継いで出雲を収めたのでしょう。

また時代は遡りますが 平家はペルシャ人のようです。平清盛が建立した宮島にある厳島神社はペルシャ由来です。厳島神社で舞われる雅楽はペルシの話しで父親が猛獣に殺されて その復讐をするという話です。

厳島神社のルーツはペルシャのゾロアスター教です。

ゾロアスターの碑文

『備後国風土記』等にみえる牛頭天王[編集]

鎌倉時代後半の卜部兼方釈日本紀』に引用された『備後国風土記逸文(詳細後述)では牛頭天王は武塔神とも称され、スサノオと同一視されたうえで富貴な弟の巨旦将来と貧しい兄蘇民将来の説話を記している。それに対し、『先代旧事本紀』ではオオナムチノミコト(大国主)の荒魂が牛頭天王であると解説する[5]

また、平安時代末期に成立した『伊呂波字類抄』(色葉字類抄)では、牛頭天王は天竺の北にある「九相国」の王であるとしている

古代出雲大社模型

ソシモリ伝説(そしまり)

金沢庄三郎は『日鮮同祖論』(復刻版 成甲書房、1978年(昭和53年))で「曽尸茂梨の(助辞)尸を除いたソモリは、徐伐すなわちソホリと音韻上一致するもので、モとホすなわちmp音の相通である」とした。また韓国の宗教文化研究院長の崔俊植(梨花大学教授)は、ソシモリは、「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意とした。

古代にアッシリアからもペルシャからも多くの民族が東の果ての日本列島にやってきた。

古代アッシリアはアッシリア人ばかりでしたが、古代ペルシャは多民族国家でした。バビロンの捕囚などもとはイスラエルに住んでいた失われた10支族もペルシャに住んでいたようです。

スサ族の王であるスサノオは古代メソポタミアの文明を継承した優秀で強い王であったようです。

そのスサノオがペルシャからインドに行き、帝釈天伝説を残し、バイカル湖経由で朝鮮半島に渡り、檀君神話やソシモリ伝説を残し、海を越えて出雲にやってきて、「国譲り」を受けます。 スサノオと大国主命を同一人物とする説もありますし、親子逆転、妻と母逆転のややこしい説がたくさんあったりします。

出雲大社

しかし出雲族のひとつ「向家」の伝承が向家はインドのドビダラ族で、北経由で日本列島北部にたどり着き、南下して出雲でその勢力を築いたようなのです。出雲についても別記事でお知らせしたいと思います。

古代日本は、中東から様々な民族が別天地を求めてやってきたパラダイスであったのかもしれません。

出雲の話しもギリシャ神話とソックリなところが多々あります。つづきはいずれ別記事にて。







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