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そこはかとなく愉しからずや

正史を捨てた韓民族。半島南部は倭人が支配していたと載ってるものだから(2)

遺伝子が違うと証明しているのに、日本人の祖先が朝鮮半島人と信じている人が、まだたくさんいますね。
韓国国立中央博物館に半島が5千年間無人であったという年表が公開されているのに、妄想に取りつかれているとしか思えない人がいます。
日本人と韓国人、朝鮮人、中国人は別人種です。古代イスラエル人と日本人男子の40%は同じYAP遺伝子から別れた同族です。中国、韓国、朝鮮人からYAP遺伝子は見つかっていません。



韓民族の正史『三国史記』を韓国は捨ててしまいました。

韓民族の正史として『三国史記』(金富軾編著 1145年)があります。それを韓国朝鮮人は捨てて、歴史を捏造しつづけています。その捏造は日本や中国まで巻き込んで、韓国の妄想を歴史としてゴリ押ししています。捨てるということは、都合の悪い正史なわけですね。

高句麗本記

前61年、満州の地に北扶余が誕生し、都を南に移し、国名を扶余(東扶余)にしたとあります。この扶余で高句麗の祖の朱蒙が誕生します。

朱蒙の才能は優れ、やがて扶余王から妬まれ、命を狙われるようになります。そこで母は朱蒙に逃れて国を興すように言い、朱蒙は南下して高句麗を前37年に開いたとあります。

百済本記

高句麗本記とは異なる部分が多いです。

扶余王には三人の娘がいたが男子はいなかったので、二番目の娘を朱蒙に嫁がせた。二人には、沸流と温祚が生まれた。やがて扶余王が亡くなり、朱蒙が王位につくと結婚前に朱蒙が男子が扶余にきて次の王である太子になります。

そこで扶余で生まれた朱蒙の子二人はわずかな家臣をつれ、南下します。馬韓王は、土地を与え、温祚を住まわせます。

その後、温祚は恩義ある馬韓を滅ぼし、百済の祖になります。

『三国史記2』

馬韓王が温祚王に語った言葉↓

「王がむかし河を渡って来たときには、足を踏み入れる場所もなかった。そこで、私が自分の領土の東北部一百里の地をさいて、安住させた。私の王に対する待遇は厚かったといえましょう。当然これに報いる思いがあって良いのではなかろうか。いま国が完成し、国民が整っていて、自分に匹敵するものがないといって、盛んに城郭を造り、わが領土を侵犯しているのは、どういうつもりなのか、と言ってなじり責めた。(百済)王は恥じてその柵を壊した」

ある日、百済の地で井戸の水があふれ、牛の首が一つで体が二つの子牛が生まれます。占い師は「大王が隣国を併合するしるしです」と答え、百済王は喜んでも辰韓・馬韓を併合する気になります。

冬十月、王は「田猟に行くのだ」と偽って出兵し、弱体化した馬韓を襲撃してその都を併せ、遺臣が抵抗するも、翌年(西暦9年)ついに馬韓を滅ぼした。とあります。

百済とは、民は倭人の子孫であり、トップだけが北方民族にとって代わられた国と長浜浩明は言っています。。

三国史記に歴代王の妃の名はなく、地元の女性(倭人の女性)を王妃にしていたと考えられます。

大和朝廷に人質を送っていた百済王室は倭人化し、朝廷の宮家(屯倉)となり、その後、日本の百済への厚遇と軍事援助、滅亡後の亡命者受け入れがあるのです。

第4代新羅王の脱解は、日本から半島に渡った倭人

『三国史記1』には、新羅の始祖の姓は朴氏、諱は赫居世と言います。赫居世(かくきょせい)も卵で産まれたという卵生神話があります。

新羅の建国は前57年です。三国史記によると、辰韓は馬韓の一部であったことがわかる記載があります。

辰韓は馬韓への朝貢を停止したことから馬韓王から喚問され、赫居世は瓢公を馬韓に派遣します。

馬韓王は赫居世が派遣した瓢公に言います。

「辰韓と弁韓は我が属国である。近年貢物を送ってこない。大国に使える礼儀としてそのようなことで良かろうか」と言ったとあります。

瓢公は「我が国では赫居世が建国してから辰韓の遺民、弁韓、楽浪、倭人に至るまで新羅を畏れない者はありません。それにも関わらず我が国王は謙虚で国交を開こうとしています。」と応じ、馬韓王は辰韓を従わせることができませんでした。

三国史記では、辰韓を代表して馬韓と直談判した瓢公の素性をこう述べています。

「彼は、もともと倭人で、むかし瓢を腰に下げて海を渡って新羅に来た。そこで瓢公と称したのである」

もともと辰韓の住民は倭人で、半島一帯は倭人の国でした。それで瓢公が辰韓に来ても言葉に困ることはありませんでし

秦から渡来した辰韓人

辰韓 – Wikipedia 

辰韓(しんかん、紀元前2世紀 – 356年[1])は、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物とを育て、養蚕を生業としていた。『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。『後漢書弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたという[2]。『三国史記』と『三国遺事』によると、中国王室の娘娑蘇夫人が海を渡って辰韓に渡来して、新羅の初代王赫居世居西干と王后閼英夫人を生んだ[3]

辰韓人は秦の亡命者のようです。養蚕も伝えたようです。古代イスラエルやローマやペルシャの文化の影響も垣間見られます。古代イスラエル人のように思える徐福も秦の人間で日本に第一派として渡来して文化を伝え日本人に同化しています。日本の各地で徐福伝説が残っています。

徐福はヨセフ説もあります。

しかし半島からYAP遺伝子は見つかっていませんから、前600年代にスサから逃れてきたペルシャ人のスサ一族は、新羅に一時期いましたが、集団大移動で日本にわたってきたようです。スサ一族はタタラ製鉄を出雲に伝えました。

後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、これは代々相承(親から子へ受け継がれる)のものであった。そのため自立せず、辰韓人は明らかに流入し移って来た人であるため馬韓が全てを制していたと『晋書』は記している[4]

辰韓は秦韓だったのですね

後漢書』巻85辰韓伝

〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉

 

三国志』魏書巻30辰韓伝

〈辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと称している。言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と呼ぶ。〉

 

晋書』巻97辰韓伝

〈辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって来た秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているため、あるいはこれを秦韓とも言う。〉

いくつもの正史に秦から逃れてきた人々が辰韓を構成したようです。その前から居た倭人は縄文人の末裔だと思います。つまりアイヌの一部とのちに出雲から逃れて蝦夷になる縄文人の末裔でしょうね。弥生人という言い方は弥生時代に生きていた人であって中韓の人々ではありません。

ただ古代イスラエルの文化が紀元前から高句麗や新羅にも見られます。百済の王が弓月国の弓月王であった時代もあり、百済や新羅から古代イスラエル系の人々が大挙して日本に逃れてきて日本人の基礎を作ったように思います。

中韓が文化を伝えたという弥生人渡来人説は非常に怪しく、現代韓国人や中国人と日本人は遺伝子的に別人種なのが判明しています。

さらに半島は前1万年から前5千年まで無人であったことが判明していますし。半島はその後のシルクロードの途中の通り道であっただけのようです。

韓国国立中央博物館の年表

北史』巻94新羅伝

〈新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。〉

新羅の王陵から発掘されたローマンガラス

ローマンガラスが新羅に伝わったのは、かなり先の時代で古代キリスト教が生まれて東へ東へと伝播していったころですね。シルクロードの草原の道から商人が活発に行き来していたと思われます。

韓日歴史座談会 

ローマンガラス
新羅の13代目味鄒王(?~284)の王陵(韓国慶州に位置)から直径1.5cmのガラス玉が嵌め込まれていた ネックレスが出土した。そのガラスの玉には四人の人の顔が描かれていたが、顔のバランス感覚や書かれた 特徴から、その人面は中央アジア人の顔であることがわかった。それでは何故新羅の王陵から出たガラス のネックレスに中央アジア人の顔が描かれているのだろうか。
ガラスは鉄器よりも古い歴史を持っている。5000年前メソポタミア(ペルシャのチグリス川・ユーフラテス川の流域一帯)で 初めてガラスが発明された時、人々は軽くて透明な物質にすぐ魅了されたという。そしてBC3、4世紀頃、 ローマの領域であったイスラエルなどの地中海沿岸で、それまでの原始的方法から、型を用いず拭き竿に巻き取った 溶けたガラス種を、宙空で吹いて成形する(宙吹き)という画期的方法で、多様な形のガラス製品を多量生産することができた。 今日世界で出土しているガラスの遺物は、その後イスラエルなどからヨーロッパ、アレクサンドリアなどローマ帝国内に 広く伝えられたものと考えられている。また皇南大塚で発見された金糸で取っ手を直した水瓶と同じ形をしているガラス の瓶が、今もイスラエルで作られており、その製作法などに違いがないことから、当時新羅にローマからのガラスの輸入 が実際行われていたと推定できる。 

新羅はあるときは韓の属国、有る時は倭の属国であった。

と、wikiでは書いていますが、新羅第4代王の脱解は倭人ですからね。倭人の子ともは倭人ですから、新羅はずっと倭人が治めていました。属国という言い方は正しくないが、周辺国からはそのように写ったのかもしれませんね。

新羅 – Wikipedia :

太平御覧』で引用する『秦書』には、377年前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。職貢図では、あるときはの属国であり、あるときはの属国であったと記述されている。斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉    斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときはに属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。また、広開土王碑中原高句麗碑には、時期によって倭、高句麗によって支配を受けていたと書かれている。

三国史記によると、辰韓住民の祖先は倭人であり、半島南部に来ても言葉に困ることはなかったとあります。

第4代新羅王の「脱解は、多婆那国で生まれた。その国は倭国の北東1千里のところにある」と記されています。この時代は倭国=日本列島ではなく、倭国は北九州あたりで、そこから東北1千里ですと、兵庫県の但馬あたりになります。

秦氏の祖の弓月王は新羅とも百済とも関係あるのは?

半島の三国時代はとってもややこしいのだけれど、

秦氏の由来についてもいろんな説があります。

新撰姓氏録』によれば始皇帝の末裔で、応神14年(283年百済から日本帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが[1]、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって[2]、真実性には疑問が呈せられており[3]、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。

隋書』には、風俗華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており[14]、これを秦氏と結び付ける説もある[15]

本居宣長新井白石は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとした[12]

いずれにしても、日本神道を建立したのは秦氏で間違いないし、日本神道には古代キリスト教(景教)の影響がたくさんみつかります。

日本神道で呼称を変えただけで、それは古代キリスト教であることを隠しつつ、その神髄や精神性はそのまま古代キリスト教です。

隠された秘密は古代より闘って逃れてきた敵対勢力の存在を感じます。

事実は、半島人の祖先は日本列島から来た倭人

従来言われてきた、日本人の祖先は韓民族説は間違っていて、日本人が彼らの祖先なわけですね。現在では遺伝子もみつからないほどに、変質してはいますけど。

『随書・倭国伝』

「「新羅・百済、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎ見、常に使いを送り、往来を絶やさないようにしている」倭国のほうが大国で珍しいものがあり、文化は倭国が進んでいたことがうかがえますね。

脱解王は倭人でしたが、妃たちの出自は不明です。男子だけに伝わるYAP遺伝子は半島からはほとんど見つかっていませんから、かなり変質してしまったようですね。近親婚が多いのでそもそもの遺伝子も変質していますし。

また脱解王の跡継ぎの話しが不可解です

脱解には実子がいたのですが、以下のような跡継ぎの話しが残っています。

「林の中の枝に金色の小箱がかかっており、その箱を取って来させ開くと小さな男の子がその中にいた。その姿や容姿が優れて立派だった。王は大変喜んで左右の近臣に、これはきっと天が私に跡継ぎとして下されたのに違いないと言ってこの子を養育した。彼が金の箱から出てきたので姓を金氏とした」

近親婚により やがて朴氏、昔氏の血統が絶え、金氏が代々新羅王を独占する時代が続きます。

後漢書倭伝によると

「倭は韓の東南海にあり、山島に依りて居をなす、およそ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使訳、漢に通じるもの、三十許りの国なり」

つまり漢が「衛氏朝鮮」を滅ぼす前108年以前、新羅、高句麗、百済が建国されるより百年以上前から、シナ人は日本に百余国あったことを知っていました。
参考書籍
次記事でも、日本建国についてもう少し調べていきます。







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